鮎川ピンポンアカデミー

鮎川正興の指導する佐賀の卓球教室 AYUKAWA PingPongAcademy

代表
プロフィール



心から指導に入る。


卓球を通して人間形成に重点を置く。
家庭で出来ない礼儀作法全般についても指導を行う。
学習面について意識させ、文章力を身につけさせる。
全国大会・九州大会で活躍できる選手を育成する。
合宿は海外で行う。30回以上中国で合宿の実績がある。

鮎川 正興(あゆかわ まさおき)
生年月日 1942年生まれ
出身地 佐賀市出身
出身大学 福岡大学経済学部卒業

1966年 小城商工会議所
1970年 佐賀清和高等学校
2010年 佐賀清和高等学校退職
2011年 アユカワ・PINGPONG Academy

鮎川正興

 
 

 

活動経歴

佐賀清和高校卓球部を率いて、昭和52年からの実績
1.全国高校総体団体22連続出場、通算35回出場(昭和38年より)個人・ダブルス29年連続出場
2.全国高校選抜12回出場(九州代表)
3.国民体育大会18回出場(九州代表)

進路歴

1984年 全国高体連中国合宿視察イン(北京)
1985年 日韓国ジュニア交流大会
日本女子監督
1987年 全国高体連中国合宿(矢津)
日本女子監督
1988年 全国高体連九州地区代表
強化部長(タマス杯創設・現トップアスリート)
2008年 佐賀県卓球協会理事長
日本卓球協会評議員
2010年 佐賀県体育協会評議員

受賞歴

1967年 佐賀県スポーツ賞受賞
2000年 国際審判員
2003年 全国高体連 表彰


 

執筆活動

佐賀新聞にて連載していた記事です。

下記よりご覧頂けます。

甘くち辛くち
教え教えられ
「葉隠」とスポーツ
いのち

黄城会総会
 
 
 

我が原点

父は昭和20年7月20日フィリピンルソン島で戦死。前年の8月にフィリピンに渡っている。輸送がなく、ほとんどの兵士が餓死とのこと。日本兵約50万人が餓死、フィリピン人約200万人が犠牲。二人の大将は昭和22年現地で戦犯として処刑。本間中将は自決。妻への遺書に神風突攻隊として多くの若者を戦死させた。毎年供養のためにフィリピンに慰霊に行くようにと。15年ほど前まで奥さまは慰霊のために現地を訪れられていたことをガイドの方に聞いた。国の事業の一環として3月にフィリピンを訪問、父が戦死したルソン島地部で慰霊祭を行ってもらう。やっと父の葬式ができた。戦後67年たって。下記は慰霊祭の追悼の辞である。

お父さんへ

 「お父さん」と69歳にして初めて書きました。母と2人で小城駅で見送ったのが最後でした。お父さんはデッキから手を振っていたそうです。昭和19年、私が1歳7ヶ月の時でした。それから、まだ22歳の母は、川崎から一人で全く知らない父の郷里、小城の地に来、父の帰りを待っていました。母と2人で手を合わせてお父さんの帰りを祈っていたことを憶えています。
昭和22年、戦死の公報が入りました。母は遺骨を受け取りに行きましたが、骨壷の中はからっぽ。何も入っていませんでした。その時の母の気持ちを思うと涙が出ます。祖母は健在でしたが、鮎川家は父の甥の智さんと2人分の遺骨が帰ってきました。
母は事務員としてすぐ働きに出ました。私は小学校に入るまで父の実家、つまり伯父の家に預けられていました。片身の狭い思いをしていたことを母から聞いています。住まいは間借り生活でしたが、小学校3年の時家主の家からの火事にあい、やっと出せたのが父の位牌と箪笥の引き出し二段だけ。その中に父の最後のはがきと戦死の公報がありました。今も大事に仏壇の引き出しにしまってあります。はがきには昭和19年8月、鹿児島からのスタンプが押してあり、他人の名前で出されていました。母に「正興にとってはただ一人の保護者だからしっかり育てるように」と書き記してありました。
火事の後は中学3年まで畳4枚の生活をし、母は1人で働いて私を育ててくれました。
昭和34年ごろ国から公務扶助科が出るようになりました。母はこのお金で私を大学まで行かせてくれました。大学卒業後は高校の教員になり、クラブ活動で頑張った生徒たちの多くが一流企業や一流大学へと進んで行きました。
中国からの留学生もとり、日本の大学へ進学しましたが一人だけイギリスの大学にそして大学院へと進み今イギリス銀行で働いています。

私の子供は娘が一人です。今年の一月から尼崎で内科の病院を夫婦で開業しました。孫は2歳になったばかりの女の子です。ある時遊んでいた孫が、ふと振り返った私の顔をみてにっこり笑いかけました。その時背筋に冷たさを感じました。父は私が2歳になる前に私と母を残して戦地に征ったのです。子供を残して戦争にいった父の気持ちを垣間見た気がしたのです。はがきの最後には「運は天にまかせて戦地に征くから」と書いてありました。
母は平成11年に父のもとへ逝きました。私は父の最後のはがきのコピーを胸にだかせました。


お父さん、お母さんに親孝行したことが一つだけあります。小城の地を離れようとしない母に小城に家を建ててやりました。10回近く引っ越しをした母でしたが、やっと自分の家に入院するまで6年ほど住むことができ母は何よりものこの家をうれしく思っていたようです。
お父さんお母さん天国でいつまでも幸せに過ごしてください。日本が世界が戦争のない平和な国であるよう祈ってください。

父親のいない子供は私を最後にして下さい。

お母さんが苦労した分、有希ちゃん(娘)が結月ちゃん(孫)が幸せに暮らせているのです。
(妻の一言)
 

我が教育の原点

私が勤務していた高校に桜を植えたのは、
40年前のことである。


かつて森一郎校長先生が「満開の桜を見て"きれい"、"見事"と思うだけでなく、植えた人のことを思い至ってほしい。」と話された事がある。

今年でそれが現実のものとなった。放送部の一生徒が今年も満開に咲いた桜をカメラに撮り、この桜を植えた人を知りたいと思ったのである。学校でいろいろ調べたところ私が植えたことが分かり、我が家に取材に来てくれた。NHKの放送コンテスト(テレビ部内)に出品するというのである。

私は今なお教育の原点を忘れていない生徒がいることに感動した。桜の木を植えて本当によかった。40年間に1万人以上の生徒が愛でたことだろう。そして「思い至ってくれた」ただ一人の生徒に私は感謝の思いである。

花は育つ

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